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キハ48が盛岡に配置され、田沢湖線での運用入りを確認できたのが、 ちょうど今から34年前の12月28日頃だったと思います。 かつて盛岡に新製配置されたキハ48も今年になって1547が車籍抹消・海外譲渡されるなど、 次第に終焉が近づきつつあります。 キハ48が盛岡に配置された当時を振り返ってみたいと思います。 *********************************** 盛岡客貨車区にキハ48が新製配置されたのは1981年12月。 キハ48 555,556,557,558、1546,1547,1548,1549の8両が配置され、 12月28日頃自宅からキハ48 556の運用入りを確認しました。
当時の盛岡客貨車区担当線区の列車は、 2エンジン車が過半数以上の強力編成を基本とし、 ローカル運用専用のキハ55は全車下り向き、 キハ52は全車下り方1エンドに統一。 急行運用のあるキハ58のみ上下両方向きが用意されていました。 一方、1エンジン車のキハ26,28,キハユニ26は全車上り向きに統一されて2エンジン車とペアで使用されていました。 キハ48はこの1エンジン車のポジションに入りました。 山田・釜石・花輪線の編成では 盛岡← →宮古〜釜石 花巻← →釜石 盛岡・大館← →十和田南 キハユニ26+2エンジン車]+キハ52 が基本で、キハユニ26のポジションが固定なので、 キハ48は配置直後に一時的に花輪線の運用に入った以外は主に田沢湖線で運用されました。
キハ48の配置で淘汰されたのがキハ26でした。 キハ26は1981年の秋頃から急に運用が減っていました。 既に二種休車となり好摩駅等に疎開留置されていたようです。 年が明けるとキハ26で盛岡唯一バス窓のキハ26 21を最初に解体が始まりました。 キハ26 21は1981年3月末、キハ55 17とペアで田沢湖線の運用に入ったのを最後に検査期限となり、 全検入場の札を差して盛岡工場に送られていました。 しかし長らく試運転線の南端(現在SLの検修施設の少し西側)に放置。 解体線のすぐ隣であったため、最初の解体着手となりました。 盛岡にはキハ26 125,214、四国バンパーが特徴だったキハ26 104、 運転室仕切り扉に唯一窓があったキハ26 190がいましたが、 昭和50年代前半に全検を受けたこれらの車両は、 雨樋の赤帯を残した急行色の姿のまま最後を迎えました。 1981年2月にキハ26 214を解体線に確認しています。 一方、1981年秋に重要部検査を済ませたキハ26 208だけは雨樋の赤帯がなく、 1982年4月以降もキハ55 199とペアで東北新幹線開業直後の夏頃まで運用の後離脱。 1983年3月に2両組んだまま解体線に送られました。
キハ26を淘汰したキハ48は、1982年に入るとキハ28の居場所も奪います。 キハ28は主に田沢湖線のローカル用で、 急行運用もキハ58と共通で「しもきた」の八戸編成などに限られるため、 キハ48に代わられました。乗降時間短縮の狙いもあったかもしれません。 1982年秋頃、長年の盛岡の伝統を破って下り向きに方転されたキハ28 451が現れました。 そして同年11月の東北新幹線の本格営業開始で急行運用が大幅に削減されると、 キハ28は一斉に一ノ関に転属。 1985年に急行「陸中」の冷房化用の2000番台が配置されるまで、盛岡にはキハ28の配置がなくなります。 小学校4年生頃からの機械的な記憶では、昭和50年代に盛岡にいたキハ28 はいずれも非冷房車で、 108,307,332,334,335,336,337,338,339,373,388,390,399,400,451・・・他にもまだいたかも?・・・だったと思います。 これら非冷房のキハ28の多くは転出後、国鉄の終焉と運命を共にしています。 なお、キハ28と一緒に配置間もないキハ48 1549(後の「うみねこ」)も盛岡から一ノ関に転属しました。 一ノ関にはキハ40系の新製配置はありませんでしたが、 転入したキハ28によりキハ26、キハ21などが置き換えられ、 1983年に入ってから次々と盛岡工場の解体線に送られました。
盛岡客貨車区担当線区では2エンジン車過半数編成のため車種統一が早く進みました。 盛岡ではキハ55を直接キハ40系で置き換えられないため、他区からキハ58,52が転入。 1982年度に入るとキハ55の稼動車が減少。 6月にキハ55 16(雨樋赤なし)が最初に解体され、 12月までにキハ55 17(あり),198(なし),130(あり)を解体線で確認しています。 その後、1982年12月27日、田沢湖線でのキハ55 27 (雨樋赤なし・元水戸機関区所属で常磐無線アンテナ台座が残り、新潟タイフォンの特徴的なバス窓車・1983年7月解体着手だが、車籍抹消は1984年1月) を最後に盛岡のキハ55が運用を終え、 1984年春頃まで盛岡駅構内で在姿していたキハ55 20(雨樋赤なし)を最後に盛岡のキハ55は全て姿を消しました。 一方、一ノ関・小牛田機関区受持線区では元々1エンジン車主体であったため、 キハ55・26とも1エンジン車で置き換えられました。 1983年に入ると一ノ関の朱色のキハ26や小牛田のキハ55も盛岡工場の解体線に送られました。 同年3月には1976年に盛岡から小牛田に転出し、 唯一の前面変形急行色であったキハ55 227の廃車入場を確認しています。
盛岡のキハ55系は1983年以降運用がなく、 好摩駅留置などを経て1984年までに全車車籍抹消・解体されました。 覚えている範囲では3月に131,160(雨樋赤あり)、 1984年1月に239が盛岡工場に送られてきましたが、 この頃は検査期限切れの車両だけでなく、 まだ十分使える車両でさえも形式の括りで容赦なく置き換えた様子でした。 実際、1981年には4月に盛岡工場に全検入場したキハ26 21が放置された一方、 8月にはこのキハ26 21を横目に盛岡のキハ55 246(→キハ51の置換用に新潟より転入。転入直後に唯一上り向きで使用された)、 一ノ関のキハ21 70が全検を施工されていました。 ところがこのキハ55 246は出場後早々と運用を外れ、 キハ21 70も(おそらく1982年内に運用離脱し)1983年2月に解体線で確認しています。 盛岡新製配置のキハ48はラストナンバー(559,1550:1982年8月落成)の直前ロットであったことから、 先々を見据えたキハ40系の新製配置・キハ58等の転属と車両の置換ではなく、 国鉄再建法成立を前に駆け込みでキハ48を新製。 会計検査院対策のために全検施工車は保留車として車籍抹消を延ばした?という感じもします。 こうして1983年の田沢湖線はキハ58,52,48のみ。 花輪・山田・釜石線はキハ52,58とキハユニ26が入るだけになり、 1981年初めまではキハ26,51,55なども走っていたのが、 面白味のないものになってしまいました。
↑ 1984.8.15 雫石駅での編成分割 左:大曲行のキハ48 556 右:盛岡折り返しのキハ58 1524 田沢湖線では1983年には車種が統一されてしまった。
キハ48は主に田沢湖線で運用されたので、高校から大学まで通学に利用することになりましたが、 地元に配置されて乗る機会が増えると正直なところ期待外れな車両でした。 エンジン音は甲高くてうるさいだけ。 パワーアップ分以上に重いためか動きだしが遅く、 25‰の急勾配が続く大釜→小岩井間では連結相手のキハ58や52の足を引っ張っているのが明らかでした。 編成内で1両あたりのエンジン数が平均1.75くらいなら直結で小岩井まで登れましたが、 キハ48が入ってからは直結で登り切れたのを見た覚えがありません。 エアサスで乗心地は改善されたものの、 クロスシートの幅がキハ58より狭いため、 学生時代はキハ48を避けていたように思います。 このためお下がりのカメラを使えるようになってもキハ48を撮ろうという気になれませんでした。 とはいえ長く乗っていれば節目などに乗った車両など愛着も出てくるもので、 キハ48のうち、特に556と1547は思い入れのある車両となりました。 ******************************* (その後) 盛岡に新製配置されたキハ48の動向はあまり気にしていませんでしたが、 田沢湖線電化開業後の大曲直通運用削減、 短編成化があり、1982年11月に新製配置間もない1549が転出した後も、 1984年4月に1548が、1986年には3月改正で555,556,1547が転出しました。 結局盛岡には新製配置の8両中557,558,1546の3両のみが残り、 JR東日本に引き継がれました。 1986年3月に初めて青春18きっぷで初めて遠出した際、 一ノ関機関区を見学させていただいたのですが、 ついこの間まで通学で乗っていたキハ48 1547が整備中で、 このときはもう盛岡の車ではなくなってしまったんだと残念に思いました。
↑ 1986.3.17,一ノ関機関区 転属直後のキハ48 1547
1986年11月改正後、急行形と一般形で統一のとれていなかったカラーが統一されることになり、 キハ48は暫定的に白帯が追加されました。
↑ 1987.2,盛岡 盛岡暫定色となったキハ48 558 キハ48にとっては新製配置後初めてのカラー変更でしたが、3両は盛岡色塗り替えを待たずに、 1988年3月、青函トンネル開業に伴うダイヤ改正で全車八戸に転出。 こうしてキハ48の盛岡配置は6年で終了しました。 なお同改正ではキハ40 524,525の2両が転入。 南秋田運転所のキハ48が時々乗り入れてきたため、 田沢湖線の改軌までキハ48の運用は続きました。
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